カテゴリー
観光情報

「国衙八幡宮」、「府中八幡」、「甲斐総社八幡神社」へ 武田家の武運長久を祈願した神社の変遷

武田家の氏神となった八幡神社 その始まりは石和から

甲府駅から武田神社へ向かい、途中を東側に入った静かな場所に八幡神社があります。社殿の背後には小高い丘があり一説には古墳があったとも言われています。石柱には甲斐総社八幡神社と記されているので、ただならぬ感じがします。

八幡神社といえば源氏の守り神であるので当然武田家も氏神としてお祀りしました。その歴史の流れを見ると元は笛吹市にある「国衙八幡宮(現石和八幡宮)」が始まりでした。
甲斐国において最初に武田の姓を名乗った武田信義。その長男忠頼をはじめ甲斐源氏の勢力拡大を警戒した源頼朝によってことごとく殺されてしまった為、五男であった信光(石和五郎という)が武田家を継承することになりました。この信光が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し「国衙(こくが)八幡宮」として石和に祀ったのが始まりです。

石和八幡宮

石和八幡宮は近年、火災により消失し新たに再建されたため見た目は新しいが歴史は古い神社です。
この時代は石和(及びその付近)が政治の中心地であったようで甲府(甲斐府中)が政治の中心になるのは武田信虎の時代を待つことになります。

府中八幡がつつじが崎館の西側に遷座

1519年に武田信虎が現在の武田神社がある、つつじが崎に館を移転するに伴い館西側に八幡宮を遷座、これが「府中八幡」といわれています。初代守護の信光の「国衙八幡宮」から信虎・信玄の時代の「府中八幡宮」を通して甲斐国総社八幡社として神社を統制する中心であったようです。国中の160の神社が2社ずつ交代で二日二夜、武田家の武運長久を祈願したとのことで、決してお祈りが途切れることがなかったと言われています。
現在この府中八幡宮は「古八幡」という名で残ってはおりますが、小学校の建設に伴って境内の敷地を市へ提供するなどし、今は地元自治会館の棟続きのお社に祀られているのですが、とても狭い一角にあるのでちょっと残念な気がします。もっと大々的に歴史遺産として残してもらいたい気がします。

古八幡が入る自治会館
左側に「峰本古八幡神社」と書かれている
右側のドアを開けて中に入る
古八幡神社

武田氏滅亡後、甲府城築城に伴い現在の場所に移転

現在の甲斐総社八幡神社は甲府市宮前町にあります。これは甲府城を築城した浅野長政(豊臣秀吉五奉行の一人)が遷座したものです。社殿の背後には古墳と言われている小高い丘があり、草が生い茂っていますが、上まで登ると大きな石がたくさんあり、ある意味神秘的な雰囲気があります。石の中には“かえる”によく似た石もありパワースポット的な場所とも言えるでしょう。
通常は地元の子供たちが広場で遊んだりする、地域に根ざした神社で一般的な参拝者はほとんで見かけることはありません。
鳥居をくぐった右側にある池の辺りには信玄公が曽我五郎の生まれ代わりだという「夢見山伝説」の案内もあります。

甲斐総社八幡神社の鳥居
社殿
通称“かえる石”と呼ばれる大きな石
鳥居をくぐってすぐ右手にある池

甲斐総社八幡神社・・・甲府市宮前町6−47
甲府駅北口から徒歩15分
ホームページ:https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/1064  

甲府観光ツアー専門.
カテゴリー
観光情報

武田氏の源流 “甲斐源氏”の発祥の地を訪ねる!義清神社、谷戸城、逸見神社

甲斐国に大きなうねりを巻き起こした源義清と清光

戦国時代の武将として名高い武田信玄公。その父である信虎公、また信玄の後を継いだ勝頼公もその名を今に残す名高い武将でした。
その武田氏の源流をたどると源義清(よしきよ)、その息子清光(きよみつ)にさかのぼります。朝廷から甲斐国への配流を命じられ常陸国(茨城県)から甲斐国へとやってきました。西暦1130年、そこから甲斐源氏の歴史が始まるのでした。

最初に土着した「市河荘」、そして清光は逸見(へみ)の地へ

義清、清光親子が最初にやってきたのは「市河荘」(いちかわしょう)といわれた甲府盆地の南部にあたる荘園でここを勢力基盤としたといわれています。
現在の甲府市南に隣接する昭和町には「義清神社」があり、本拠地であったようです。(一説にはさらに南部の市川三郷町の平塩岡といわれる地域が本拠地であったという説もあり)

義清神社

また神社の近くには「おこんこん山」という塚があり義清の墳墓であるといわれています。

そして息子清光は八ヶ岳南麓の「逸見荘」へ

義清が市河荘で勢力を拡大する一方、息子清光は逸見(へみ)荘へ目を付けここを本拠地としたことから逸見清光といわれます。(逸見とは八ヶ岳南麓一帯の古い地名)
現在の北杜市になりますが、旧跡が多く残っておりその一つに谷戸城跡があります。城といっても戦国期の石垣を積み上げた城ではなく、地形にあわせ土塁や空堀を配した円状の形をした平山城です。9月上旬に訪れましたが、草刈りもしてあって見学しやすい状態でした。

ただ、この手の城は初めてだったのでどう歩いて行けばいいのかよくわからない感じで最初戸惑いました。まぁ、分かりやすければ城の意味がないのでしょうが・・・(笑)
国の史跡として指定されてはいますが、認知度は決して高いとは言えない歴史遺産。もっと広く知れ渡り甲斐源氏の歴史の中での武田氏他の活躍を知ってもらいたいと思います。

谷戸城案内

谷戸城の鎮守・八幡神社と一緒になった「逸見神社」

逸見神社拝殿

逸見神社は元々は諏訪明神を祀った神社で逸見冠者清光以来、逸見氏代々が崇拝するうちに逸見神社と称するようになったのが始まりのようです。確かに真っ先に目がいったのは神紋で「梶の葉」が描かれていたので、諏訪大社関係?とは思いました。
平成12年に谷戸城の鎮守としてあった八幡神社を逸見神社内に移設新築したとのこと。両神社の神殿は並んで建っていることになります。(天候が悪化したため神殿までは見れませんでした)
また八幡神社の鳥居や灯籠なども境内に移設したとのことで二ノ鳥居には「八幡神社」と書かれています。

郷社逸見神社の石柱が建っている
一ノ鳥居には「逸見神社」名
参道を進むと二ノ鳥居があり「八幡神社」と書かれている
三ノ鳥居は朱色で塗られている
神楽殿は唐破風があしらわれていて立派

この神社から少し離れたところには「清光寺」といって清光が開基した曹洞宗寺院もあります。(今回は残念ながら行けず・・)
この逸見の地からその後の甲斐源氏の活躍が始まったと言えるでしょう。清光の次男「信義」が甲斐国で初めて武田の名を名乗ったのが1140年、そこから武田家17代当主である勝頼が自刃し滅亡する1582年まで甲斐武田氏は著しい躍進を遂げるのでした。

義清神社…山梨県中巨摩郡昭和町西条4265
ホームページ:https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/5045

谷戸城…山梨県北杜市大泉町谷戸260
ホームページ:https://www.hokuto-kanko.jp/sp/sakura_yato_castle_ruins

逸見神社…山梨県北杜市大泉町谷戸1143
ホームページ:https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/6174

甲府観光ツアー専門.
カテゴリー
観光情報

“甲府盆地湖水伝説”を今に残す、甲府の中心に鎮座する神社 穴切(あなぎり)大神社

甲府盆地が湖だった⁉︎その水を抜いた伝説が伝わる神社

甲府駅のすぐ南に位置する甲府城。この天守台に登ってみると四方八方を山に囲まれていているのがよくわかります。周辺の高台から見ればなおさら甲府が盆地であることをしみじみ感じることができるでしょう。
さて、この甲府盆地が“和銅年間“というから708〜715年、この頃はなんと、湖であったというのです。

甲府中心部からほど近い「夢見山」から甲府盆地と富士山を望む

当時、国司が見回りをしていて湖水の水を抜けば良い田んぼになるのでは?と考え、大己貴命(おおなむちのみこと)–大国主命(おおくにぬしのみこと)のこと– にお祈りし、盆地の南側を切り開いて湖水の水を富士川に流し込むことで、広大な田んぼを開墾できたというものです。その際に穴切明神として創建されたのがこの神社と言われています。

随神門(ずいじんもん)二層の楼門で1794年の建立とのこと
拝殿にかかる幕には武田家の家紋「武田菱」と八咫烏(やたがらす)が表されている
本殿は国重要文化財 一間社流造という形式で安土・桃山時代の作といわれる。

拝殿の横を通り裏手の本殿をみると立派な造りなのでびっくりしました。「一間社流造」(いっけんしゃながれづくり)という安土・桃山時代に造られた作のようです。側面から見ると前後に水が流れるような線をもっていることから流造といわれるとのこと。

神楽殿 結構立派なつくり
(左)塩釜社  (右)道祖神社

湖水伝説にはいくつか説があるのですが、この付近からは縄文土器も発掘されているので、古くから人が生活していたことがわかっており、したがってこういった伝説も多く残っているのではないでしょうか。
実際のところ、湖水だったのは何万年も前のことでしょうが、こういった伝説が甲府の中心に言い伝えられているのは面白いことですね。
小さい神社ですが、歴史と趣をひしひしと感じられる街中の神社です。

穴切大神社…甲府市宝2−8−5
甲府駅から徒歩15分程
ホームページ:http://www.anagiridaijinja.jp/

甲府観光ツアー専門.
カテゴリー
観光情報

武田勝頼によって築かれた武田氏最後の居城「新府城」。決戦に備えた難攻不落の城であったが・・・

本丸跡

武田氏の築城技術を結集し完成を目指した最後の城

武田信虎が甲府市のつつじが崎に館を造り、その後信玄、勝頼と3代の居城となっていましたが、勝頼は甲府の西方、韮崎の地に新たな城を築城し移転することにしました。
織田軍の侵攻に備え、強固な城を造ったのですが、予想より織田軍の侵攻が早かったため、未完成のまま入城し最後は勝頼自身が火を放って退去するという戦国時代末期の動乱の中で悲しい運命を辿った平山城です。

歩いていると至る所に案内・説明看板が設置されているので分かりやすくなっています。
新府城想定復元図がありました。

大手門前には武田流築城の特色である「丸馬出し」とその前方に「三日月堀」が配置されていたようです。また西側は七里岩の断崖と釜無川によって守られた要害です。
この場所に築城したのは信濃方面から侵攻してくる織田軍を迎え撃つためといわれております。
新府城に来て分かったのですが、思っていたよりも虎口や井戸跡などしっかり残っているのに驚きでした。特に井戸は直径20m以上はあるのでは・・・という大きさです。説明看板が無ければ大きい凹みと思って見過ごしていたことでしょう。

また本丸は結構広い敷地面積があり、現在は「藤武神社」があります。これは勝頼が鎮守として祀ったのが始まりといわれています。

訪れた日は草なども刈られていて手入れがされている感じでした。また本丸の一部エリアは発掘調査がされています。

また「武田勝頼公霊社」と書かれた石祠が建立されていてその横には勝頼公また武田氏を讃えたこれまた大きな石碑があります。

勝頼自らによって火が放たれ・・・

織田軍の武田攻めが勝頼の想定よりあまりに早く、この新府城は1581年末に一年足らずで一応の完成を見るが、その翌年に武田家は滅亡します。甲府の府中に対してこの地を新府と名づけ、死守する決意でいた勝頼でしたが敵方への投降者が相次ぎ、この城は勝頼が入城して70日程で自らが火を放って退城するという何とも悲劇の城となってしまいました。

今回は駐車場から西出構えから乾門桝形虎口、二の丸そして本丸と抜けて見学しました。
さすがに暑さの中で249段の神社参道を登る勇気はなく、降りるのに利用。残念ながら大手門方面は時間の関係で見ることができなかったので次回の楽しみにとっておきます。

新府城跡 韮崎市中田町中條
     JR中央線新府駅から徒歩15分
HP:韮崎市観光協会
https://www.nirasakikankou.jp/kankou_spot/jinjya_bukkaku_rekishi/meisho_kyuseki/6562.html
     

甲府観光ツアー専門.



カテゴリー
観光情報

武田家3代の詰城「要害城」 戦国期の山城の様相を今に伝える天然の要害 

要害城跡が残る要害山

つつじが崎の居館とセットで築かれた詰城

武田信虎がつつじが崎に居館を築いたのは1519年。翌年1520年に居館から北へ3キロ程行った所に危急の際に立て篭もる為の詰城として築かれたのが「要害城」です。
この頃は駿河の今川勢が頻繁に甲斐国へ侵攻してきた時期で、1521年には「飯田河原の戦い」があったといわれており、まさに現在の甲府の中心部から西へ2キロほどいったところまで攻め込まれたことになります。今川勢福島正成が率いる1万5千人の大軍を信虎は2千余人でこの戦に勝利したといわれています。
その戦いの最中に要害城で武田信玄が誕生しました。

要害城跡の主郭にある石碑。「武田信玄公誕生之地」と刻まれています。

主郭までは30分ほどで登ることができます。入口には「史跡 要害山」の石碑がありマップや説明文があります。

登山道入口に建つ石碑
いよいよ要害山の中へ入っていきます
史跡境界の杭
案内看板が有難い
曲輪跡
不動曲輪⁉︎
これは見事なお不動さん
やっとこさ主郭部分へ到着
信玄公誕生の石碑横にある山梨百名山の証

曇り空でしたが蒸し暑い日だったので、けっこう汗をかきました。主郭部は広くて創造していた感じでした。たまたま木々の間から遠くの景色を見ようとしたら、「おっと、富士山だ!」

主郭部から見る富士山

まさか富士山が見えるとは思っていなかったのでちょっと感動。
500年前も同じように富士山を望むことできたことでしょう。

門跡の石垣
野面積み?

本丸跡が770mなので気軽に登ることができると言えますが、途中それなりに険しい部分もあるので足腰に自信のない方は無理しない方がいいかもしれません。
また今回はうっかり、“諏訪水”といわれる井戸跡を身損ねてしまったのが残念!次の機会に!

要害山 
 甲府市上積翠寺町984
 甲府駅北口からバスで15分
 ホームページhttps://kofu-tourism.com/spot/54

甲府観光ツアー専門.
カテゴリー
観光情報

時速500kmがもたらす次世代体験‼︎超電導リニアに試乗 in リニア見学センター

超電導技術が革新的なスピードを成し遂げた

山梨県にリニア実験線ができたのが1997年。その後延伸されて現在は総延長42.8kmとなった「山梨リニア実験線」。
これまで試乗した人に話は聞いていましたが、今回リニアに試乗する機会を得ることができたので乗ってきました。
リニア実験線はほとんどがトンネル内を走行するため、外部にその姿を見せるエリアは限られています。これまで1度早いスピードで走行しているのを見たことがあるくらいで、あとはゆっくりした速度で地上に出てきて走行しているのを数回見たことがある程度でした。

搭乗施設へ向かうと体験乗車会場の案内が…

山梨県都留市にあるこのリニア実験線施設。観光用としては「リニア見学センター」という施設があり、「どきどきリニア館」と「わくわくやまなし館」という2館がありますが、試乗はこことは別に試乗専用の建物がありそこへ向かいました。
案内された大きな部屋にはリニアに関する各種説明資料が壁に掲出してあるので時間まで自由に見て、その後搭乗前のガイダンスが始まりました。

搭乗前の映像によるガイダンスの様子
リニアが世界最速記録を出した際のギネス認定証が飾られている

いよいよリニアに搭乗。 ドキドキ‼︎

車両搭乗のゲートはさながら飛行機へ搭乗する感じです。各号車ごとにゲートがあって気分も盛り上がります。
車内はシートが向かい合う作りになっていて初めは疑問に思いましたが、現状は行ったり来たりを繰り返す実験線なので反対側に座り直せば常に進行方向を向いて乗車できるため対面座席になっていることが分かりました。


期待と共に車両が動き出すと、150kmに達するまではタイヤ走行なので振動もありますが、浮上すると振動が消えるのがはっきり分かります。とはいってもやはり500kmでの走行、思っていたより浮上後の振動が感じられました。またトンネル内での走行でもあり走行音もそれなりに聞こえます。(もちろん飛行機ほどではないですが)座席には収納タイプの小型テーブルやUSBポートも付いています。

時速500kmに達した際の車内モニター
座席の肘掛けに付いているUSBポート

あとで分かったのですが、本格営業を目指しあえて高低差やカーブをつけて実験線を作ったとのことです。乗車しているとほとんどモニターで外部の様子を見ているのでそこまで分かりませんでした。
降車後はリニア車両をガラス越しに間近で見れる場所へ通されて記念写真を撮ったりできました。

ノーズが異様に長いL0系改良型試験車
車両側面

試乗が終わり次は外部から走行しているリニアを見るため「どきどきリニア館」へ向かいました。そこでは超電導の技術的説明やリニア中央新幹線としての紹介映像、ジオラマなどがありまた磁気浮上が体験できるミニリニアなどがあります。また旧タイプの実験車両も展示されていて車内に入って見ることもできました。


リニア走行を見学できるのはこの「どきどきリニア館」3Fでガラス越しに、そして外へ出て見ることもできます。(但しネットが張ってありますが)ちょうどリニアがトンネルから出てくる場所なので近づいてくると音でわかります。また通過する際、建物の振動も結構感じました。

実際に高速でリニアが通り過ぎる映像です。
(映像1)

トンネル内から出てくる様子。

(映像2)

目の前を通過。
停車するところ。

試乗を終えて

今回運良く抽選で試乗体験が当たり乗車できました。
時速500kmで簡単に移動できたら日常的に、また経済的にも社会に大きな変化をもたらすでしょう。現在の新幹線ですらその移動の速さにある種「魔法の乗り物」という感じがしていますが、さらに大きく上回る速さ。東京〜名古屋間が最速40分ですから驚異的です。開業予定は2027年ですが、そのためにはまだ乗り越えなくてはならないハードルもあります。「超電導リニア」といわれる日本固有の革新的技術が実用化され世界に誇れる日が来ることを心待ちにしたいと思い見学センターを後にしました。

山梨県リニア見学センター
 山梨県都留市小形山2381
  (JR中央線大月駅からバスで15分)
ホームページ:https://www.linear-museum.pref.yamanashi.jp/index.html

甲府観光ツアー専門.
カテゴリー
観光情報

ついに始まる!甲斐善光寺は7年ぶり令和初の御開帳!本尊「阿弥陀三尊像」に祈りを捧ぐ。

7年に1度の御開帳が1年延期され4月3日から開催中

甲斐善光寺の御開帳は長野の善光寺と合わせ7年に1度実施されているのですが、新型コロナの影響で昨年春に開催できず、1年遅れての御開帳となりました。
山門には“御開帳”の横断幕が貼られ、境内には「回向柱」(えこうばしら)が立てられて気分も高揚します。

境内に立てられた回向柱

回向柱はご本尊の右手と「善の綱」で結ばれているので、柱に触れることでご利益があるとされているのですが、うっかり触るのを忘れてしまって・・・残念!

何度も訪れたことのある善光寺ですが御開帳時に訪れるのは初めて。500円支払って本堂へ入り「阿弥陀三尊像」を拝ませていただきました。残念ながら写真撮影は禁じられていて撮れませんでしたので参考に読売新聞オンラインの写真でご覧ください。

阿弥陀三尊像(参照:読売新聞オンライン)

まさしくありがたいお姿です。
今回の御開帳に合わせ観光バスで来られた団体様も見受けられ、徐々ではありますが観光も回復の気配が感じられ嬉しい限りです。といっても新型コロナは変異を続けているのでまだまだ安心はできません。コロナの早期の収束を祈り、善光寺を後にしました。

本堂入口
本堂から眺める山門

甲斐善光寺
  山梨県甲府市善光寺3丁目36−1 
JR身延線「善光寺駅」から徒歩7分
ホームページ:http://www.kai-zenkoji.or.jp/index.html

甲府観光ツアー専門.

カテゴリー
観光情報

華光院(けこういん) 真言密教の極み「火渡り祈願祭」が3年ぶりに開催!無病息災と世界平和を祈願

甲府市の真言宗寺院である「真如山華光院良林寺」で3年ぶりに春の大祭である「火渡り祈願祭」が4月10日に開催されました。
噂には聞いていましたが、実際に見るのは初めて。
この華光院は武田信虎公が甲府のつつじが崎へ館を移した後、紀州から本尊「三宝荒神」を勧請しお堂を建てたのが始まりで、信玄公が現在の場所に移し寺名を名付けたと言われるので500年もの歴史があることになります。


10時過ぎに到着するとのぼり旗も上がり、境内には柴燈護摩壇が設置され、また露店も多く出店していてお祭り気分も高まります。

三寶大荒神ののぼり旗
境内に設置された柴燈護摩壇
露店が立ち並ぶ
お子様に人気だった魚つりゲーム

大勢の人が見守る中で、様々な儀式が行われていきます。初めて目の当たりにすると真言密教の神秘性を感じます。

山伏姿で入場する僧
弓を放つ法弓(ほうきゅう)という儀式

想像していたよりはるかに燃え盛る炎の中へ入っていくのに驚きです。

勢いよく火がついていく
火渡りを始める導師

華光院には「太子堂」という歴史を感じさせるお堂があるのですが、これは甲府城の本丸(天守台下)にあったものを1724年に移設したものです。甲府城建築物としては唯一現存するものなのでとても貴重で興味深いです。

華光院の“太子堂” 甲府城にある時は“毘沙門堂”と言われていたようである。
桜に映える太子堂
“甲府七福神めぐり”で毘沙門天を祀る

これまで“火渡り”はテレビやYouTubeで見たことはあったのですが、実際に見ると思っていた以上の迫力でした。
一般の人も炎が落ち着いてから渡ることができ、無病息災、そして各人それぞれの願いを祈って老若男女を問わず大勢の方が“火渡り”をしていました。

一般の方の火渡りの様子
遠くから見た華光院。煙が立ち昇っている

華光院 
  甲府市元紺屋町33 
  JR中央線甲府駅北口から徒歩20分
関連ホームページ:https://kofu-tourism.com/spot/381

甲府観光ツアー専門.
カテゴリー
観光情報

山梨・北杜市で見つけた絶品そば処「そばICHI」‼︎センスのある古民家で日常を離れる!

韮崎から清里へ抜ける国道141号線から外れて細い田舎道を行くとその蕎麦屋はありました。事前に調べた上で行かなければ辿り着けない蕎麦屋、と言えるでしょう。しかも車を駐めるにも本当にここを進んで行って大丈夫なのだろうかと不安がよぎります。
それ程まで蕎麦屋の概念を覆した「そばICHI」。味、雰囲気とも感動を覚える店です。

駐車場から店を望む
建物に沿って歩き入口に向かう。
「そばICHI」店入口

駐車場からは建物反対側の入口まで歩くのですが、まさに一昔前の田舎の庭を歩く感じ。所々に店内での注意事項などが貼られていて不安を覚えながら入口に着くとすぐに店の女性の方が優しい声で店内へ案内してくれました。
入ってびっくり!「蕎麦が準備できるまでこちらの部屋で本を読んでお待ちください」とのこと。蕎麦食べる前に控室に案内されそしてその控室が古民家にマッチしたセンスのいいオブジェで装飾され、所々に本と椅子が配置されていました。

平日で空いていたこともあって15分ほどで呼ばれ、食事するスペースへ案内されていくとこれまたセンスの良さを感じる空間が待っていました。ここだけ見れば蕎麦屋とは思えないでしょう。
この中にいる間は、スマホやPCなどから離れゆっくり本でも読んで心を落ち着けて美味しいそばを味わって欲しい、というオーナーの考えが伝わってきます。

外の景色を見ながら食べれるのがいい!
控室と同様、本が所々置かれている
食事スペースもデコレーションセンスあり

ちなみにこの「そばICHI」の蕎麦は2種類のみ。「素揚げ野菜のおろしそば」と「揚げ野菜のとろろそば」。
入店時に「おろしそば」を注文しておいたので、少しの間を置いて料理が出てきました。

素揚げ野菜のおろしそば

県内で味に定評ある蕎麦店で「素揚げ野菜の蕎麦」を食べたことがありましたが、それを上回る美味しさでした。
金額は税込1,760円で正直高めです。しかし古民家をセンスよく装飾して、様々な本を並べることでくつろぎ感を与えてくれる、そんな通常では体験できない店づくりを考慮すれば決して高くないと思いました。
コロナ禍で窮屈な生活が続く中で、久しぶりに感動体験ができました。

そばICHI … 山梨県北杜市高根町箕輪1830
参照:食べログhttps://tabelog.com/yamanashi/A1902/A190201/19004896/

甲府観光ツアー専門.
カテゴリー
観光情報

宮沢賢治の作品の原点 「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」の舞台を訪ねて

風の三郎社

宮沢賢治の作品の舞台が山梨に!

以前、甲府に関係する作家で“太宰治”を紹介しました。今回は甲府の西隣に位置する北杜市及び韮崎市に“宮沢賢治”の作品に関係する場所を探ってみました。
というのもたまたま賢治の「風の又三郎」に関係するのでは?というスポット、その名も「風の三郎社」という神社があることを耳にしたためです。さらに「銀河鉄道の夜」の舞台ではないか、という場所もあることを知り、ますますその気になりました。

賢治は山梨には来たことがない!?

だが、そもそも岩手県出身の宮沢賢治は山梨県には来たことがないようである。ではどうして? これには韮崎市出身の“保阪嘉内”が関係しているのでは?ということです。嘉内と賢治は盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の寮で同部屋であったそう。その際、嘉内から故郷山梨の話を幾度と聞き、その話から情景を思い浮かべ、想像を膨らまして書いたのでは?とも考えられます。
ということで先ずは「風の三郎社」を訪れて見ました。

同人誌「アザリア」のメンバー。後列右が賢治で左が嘉内

270年程前から伝わる「三社参り」という風習が・・・

北杜市高根町清里に「三社参り」という風習があることが分かりました。この地域は“八ヶ岳おろし”といって冬は八ヶ岳から強い風が吹き下ろすため、“風切り”と呼ばれる防風林があります。まさしく「風の又三郎」に関係していそう、という感じ。
先ずは三社のうち「権現神社」といわれる神社を目指しましたが、何日か前に降った雪が残っていてたどり着けそうもなくあえなく断念。(中心ともいうべき神社なので残念‼︎)
次に「日吉神社」を訪ねました。近くなのですぐ分かりました。

最初にある鳥居。さらに奥には木造の鳥居が見える。

残雪がある畑の傍を抜けて歩いて行くと石でできた鳥居があり、さらにその奥には木製の歴史ある鳥居が見えました。そこには1000年近く経つのではという大きく立派な杉の木が階段両側にあり驚愕。成長する過程で参道の階段を根が押し上げたせいか、石段がうねっていて歩きづらいことこの上なし。階段には雪が無かったのが幸いでした。

立派な杉の木。石段がうねっている。
社殿は質素な作りですが、歴史が感じられるものでした。

続いて三つ目の「風の三郎社」へ。まさしく風の又三郎を匂わす神社。だがここからが困難を極めました。近くまでは車で行けるのですが、どこにあるのかさっぱり分からず。地元の方々に尋ねると決まって最初に行くはずだった「権現神社」を案内するのです。そんなこんなで行ったり来たりしているうちに狐につままれたのではと思う次第。ダメ元で駐車していた若い女性に尋ねたところ、知り合いに電話で聞いてくれて風の三郎社まで案内してくれました。まさに感謝感激!その女性にこの辺りの出身か尋ねると、なんと岩手県出身で数ヶ月前に山梨に来たばかりとのこと。なんという巡り合わせでしょう!ちょっと神がかり的な偶然に驚きと感動を抱いて風の三郎社へ到着出来ました。

残雪も邪魔して神社位置が分かりづらい
歴史が感じられる古い鳥居
赤い屋根の小さな祠。風の三郎社
風で祠が飛ばされないよう石を重しに!
周囲に鹿らしき足跡。鹿もお参りに来た?

思っていたより正直小さなものでしたが、小さいながらも趣のある神社で心を和ごましてくれました。
この辺りは防風林があるほど風が強い地域。嘉内がそんな話を賢治にしたところから「風の又三郎」ができたのだとしたら・・・
しばし感慨にふけり、風の三郎社をあとにしました。

「銀河鉄道展望公園」という場所がある!

さて、次に訪れたのは韮崎市にある「銀河鉄道展望公園」。なんかそれらしいものが道路沿いにあることは以前から認識していましたが、あらためて行ってみました。
ちょっとした小さな展望台ですが、韮崎市も観光スポットとしたいようで細かな案内看板が設置されていました。
元々は観光で近くのペンションに宿泊した女性がこの場所から見る夜景から「銀河鉄道の夜」を連想したことに始まったそうです。たしかにこの場所は保阪嘉内の実家から遠くない場所。嘉内が賢治にここからの夜景を何度となく話し、そこからこの作品が生まれたのかも、と思わせる場所ではあります。
ただ今回は昼に行ったので、やはり夜に行ってみないと実感が湧きません。昼だとどこが線路なのかも分からない始末・・・

銀河鉄道展望公園からの景色。
詳細に書かれた説明板。

公園の隅には親切に中央線の電車が通過する時間が書かれた看板が設置してあるので、その時間に合わせて見ていれば“銀河鉄道”が現れることでしょう。
(当然夕方からの時刻が書かれています)

公園に設置された案内板

この案内看板に面白いことが記載されています。中央下部に「ハレー彗星」と書かれていますが、保阪嘉内が甲府中学時代に南アルプス上空をハレー彗星が流れているスケッチを描き、「まさに夜行列車のようだ」と書き記していて、賢治もそのスケッチを見ており、それをもとに後に書き上げたのが「銀河鉄道の夜」では?とのこと。
様々な推測ができて、それがある意味楽しくもあり、機会あればさらに宮沢賢治作品のルーツを探ってみようと思います。

関係するホームページ(ご参考)
 ◉風切りの里「三社参り」
 http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja2/3syamairi.htm

◉銀河鉄道展望公園
 https://www.nirasaki-kankou.jp/kankou_spot/kouen_bijyutsukan_shiryokan/kouen_teien/4332.html

甲府観光ツアー専門.