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450年ぶりに高野山から甲府・つつじが崎に戻った信玄公の遺産 十五童子像と五鈷鈴

高野山、それはあの弘法大師空海が嵯峨天皇から用地をいただき、真言密教の聖地として切り拓いた山です。
ここに450年前、信玄公が亡くなった折、息子勝頼は信玄公愛用であったと言われる「弁財天大黒毘沙門天十五童子像」、「五鈷鈴(ごこれい)」を奉納したのです。
この二つの奉納品が今回、武田神社前の「信玄ミュージアム」で展示中とのこと、拝見しに行ってきました。

弁財天大黒毘沙門天十五童子像
五鈷鈴

多分そうだろうと思っていましたが、写真撮影禁止でした。
残念…!いただいたチラシで掲載します。

「弁財天大黒毘沙門天十五童子像」は高さ16センチ程の厨子の中に弁財天を中心にして、周囲に大黒天、毘沙門天、十五童子が配置されているもので、驚くほど精巧に造られていてビックリです。信玄の枕本尊とも言い伝えられているので、信仰心のあつかった信玄が常にそばに置いて礼拝したものかもしれません。

五鈷鈴は仏具の鈴ですが、持ち手の先端部分は尖っていて、また蓮華文様等が緻密な作りに仕上げられていて、小さいながらも豪華さも兼ね備えた鈴です。この鈴の音はあまりに美しいため“松虫の鈴」と呼ばれるそうです。

これらは通常は高野山成慶院に所蔵されているとのことで、なかなか見に行くことができないので貴重な機会でした。

ところで信玄公のお墓というと菩提寺である甲州市「恵林寺」ですが、高野山にもお墓があるのを知っていますか。
高野山奥之院の参道に「武田信玄公・勝頼墓所」があります。ここには有名な戦国武将の墓があります。信玄公・勝頼墓所のすぐ向かいには上杉謙信の墓所、その他に織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、伊達政宗等々、名だたる武将の墓所が揃っています。
なぜかというと、諸説あるようですが一説にはお釈迦さま入滅後、53億7千万年後に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が救世仏となってこの世に現れると言われていて、その際に空海も一緒に下生(げしょう)し説法をする。その一ヶ所が高野山であるため、戦国武将たちもその時を参道で待っているとのことです。
お釈迦様が入滅してから2500余年しか経っていませんのでまだまだ先は長いですね。

信玄ミュージアムに高野山の墓所の写真があったので撮影してきました。見づらいですが左の大きい五輪塔が信玄、右の小さい方が勝頼だそうです。

※この企画展は2023年7月31日まで開催しています。

信玄ミュージアム
  甲府市大手三丁目1−14
JR中央線甲府駅(北口)からバスで約10分(武田神社下車すぐ)
ホームページ:https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/kofu-takedashirekishikan.html

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甲斐国鎮守の神とされてきた「甲斐奈神社」 白山大神、浅間大神を祀る歴史ある神社

「金手」(かねんて)という名前の由来は?

甲府駅から東側、JR身延線の金手(かねんて)駅近くに、甲斐奈神社があります。国道411号線で東から甲府中心に向かってくるとクランクしている所です。
そもそもこのクランクは江戸時代にできました。ここから城下町に入るという合図であり、また当然見通しが悪くなるので敵が攻めてきた場合に防御する役割もあります。
金手(かねんて)というのは旧町名でこのクランクが名前の由来です。大工さんが使う物差し「曲尺(かねじゃく)」に形が似ているところから曲尺→金尺→金手と変化していったといわれています。実際日本各地の城下町だった都市にはこのようなクランクはみられ、曲尺手(かねんて)という地名で残っていたりもします。

甲府東部のクランク
大工さんが使う曲尺(イメージ)

『延喜式』神名帳にも載る、甲府城を守る東部守護神

甲斐奈神社は元々は甲府駅から見てすぐ北東部にある愛宕山にありました。当時は“甲斐奈山”と呼ばれていたらしく、神社名の由来なのかと思われます。白山神社を祀るもので、延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)にも記載されているので古くからある、“老舗”の神社といえます。この延喜式神名帳は927年(延喜5年)当時に「官社」に指定されていた全国の神社の一覧です。山梨県内では甲斐奈神社を含め20社が数えられています。

拝殿
大国主大神の石像
甲斐奈神社の説明案内
境内末社の数もたくさん

甲斐奈神社の主祭神は白山大神(ククリヒメノミコト)と浅間大神(コノハナサクヤヒメノミコト)です。
元々は甲斐奈山(現愛宕山)に白山大神を祀ることに始まり、1519年に武田信玄の父、信虎が居館をつつじが崎に移すにあたって、現在の場所に移したようです。
その後1590年代に甲府城を築城する際、浅間大神を併祀して甲府城の東部守護神となりました。

綺麗に整備された境内は落ち着き感があり

道路から階段を上ると正面に社殿がありますが、左側に目をやるとちょっとした緑の草木とその間を通り抜けることができる小道が配置されていて趣があるとともに心に落ち着きを与えてくれます。またその奥には境内末社が数多く立ち並んでいて圧巻です。あらゆる事に神様の御加護がいただける、そんな感じがします。

緑地エリアが境内の一部に配置されている
境内末社入口。奥に見えるは延命長寿社
様々な境内末社が並んでいる
緑の中に赤い鳥居が映える

甲斐奈神社前の“通り名”について

この甲斐奈神社前を東西にはしる道路は「甲斐奈通り」と呼ばれています。神社名が通りの名前になったようですが、その昔は「山田町通り」といわれていました。これ「やまだまち」と読んじゃいますよね。実は「ようだまち」と読みます。
この町名になったのは柳沢吉里が甲斐の領主になる際(1709年)に、それまでは「伊勢町」といわれていたのを「山田町」に変えた経緯があったようです。
一説には、吉里は伊勢守(いせのかみ)だったので同じ名前では失礼だということで変更したようですが・・・

甲斐奈通りの標識

甲斐奈神社
  甲府市中央3丁目7−11
JR身延線金手駅から徒歩2分
ホームページ:https://www.kainajinja.com/

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つつじが崎の館の北に位置する「積翠寺」。信玄公生誕の地との言い伝えもある寺。

行基が開山の古刹。臨済宗妙心寺派の積翠寺

武田3代の城「つつじが崎の館」。その北側3kmほど行ったところにこの「積翠寺」があります。もともとは「石水寺」と呼ばれていたそうです。その理由は、境内の大きな石から泉が湧き出たからというから興味深いですね。
開山は行基だというので飛鳥・奈良時代からの歴史があるお寺ということになります。後には夢窓国師(夢窓疎石)の弟子が中興し17世紀に現在の臨済宗妙心寺派に転じたようです。
こんなに歴史があるとは・・・、今まで気付かなかった・・・

なんとも歴史を感じさせる
 本堂屋根に付けられた武田菱が目を引く

今川勢との飯田河原合戦が始まる。

1521年に駿河勢(今川勢)が甲斐国へ侵攻し、ついに飯田河原で激突することになりました。飯田河原はつつじが崎から目と鼻の先とも言える距離。こんなところまで駿河勢が侵攻してきたとは切迫状態であったことでしょう。その数は5千〜1万5千と諸説ありますが、迎え撃った武田軍は2千というからその差は歴然。
武田信虎公は正室である大井夫人を館の北にある詰城として築かれた要害城へと避難させるのですが、その時身ごもっていたのが後の信玄だったのです。
この数的不利な状況でも信虎は地の利を生かし勝利することができたのです。

信玄公生誕の地とも言われる積翠寺

飯田河原合戦の勝利後、半月ほどして信玄が誕生したので信虎は大いに喜び「勝千代」と名付けたそうですが、積翠寺には本寺においてのちの信玄を出産したと言い伝えられていて、本堂裏にある井戸で産湯を汲んだと言われています。

産湯を汲んだ井戸
本堂裏にある庭園

寺宝として所蔵されている「積翠寺和漢連句」

和漢連句とは、五・七・五の和句と呼ばれる和歌と漢句と呼ばれる五言の漢詩を続けた連歌の一種だそうです。
信玄は1546年にこの寺で後奈良天皇の勅使として下向していた三条実澄らを迎えて和漢連句会を催し、その時の連句が今も残っているそうです。信玄は京都文化を積極的に取り入れ、武芸だけでなく文芸にも優れた人物であったことが分かります。

境内にあるお堂の石碑
信玄公像が安置されているお堂内

信玄公生誕の地は「要害城」であって積翠寺ではない、という説もあり真実は分かりませんが、今なお武田家の面影を大きく残す寺院の一つであることは間違いありません。

機山武田信玄公誕生之寺

万松山積翠寺(ばんしょうざんせきすいじ)
  甲府市上積翠寺町984
JR中央線甲府駅北口からバス15分、「積翠寺」バス停下車徒歩約5分
ホームページ:https://kofu-tourism.com/spot/55

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甲斐・武田氏の歴史発見 笛吹市石和町にある「成就院」その歴史は甲斐源氏始まりに遡る!

武田信重の菩提寺であり、政治の中心地であった!

甲府市の東に隣接する笛吹市石和町。この地は武田信虎(信玄の父)が甲府・つつじが崎に館を移す前までは政治の中心地であったといわれています。
つつじが崎に館を移す前は現在の甲府市川田町(ここも石和町に隣接していますが)に館がありました。
現在はぶどう畑になっていますが、当時の面影を残す石積みを見ることができます。

川田館跡

これ以前、いわゆる中世にかけて武田信重が甲斐守護(信玄の5代前)であった際、居館を置いたのが石和町小石和というところで現在は「六角山成就院」という浄土宗の寺となっています。
この寺は信重の子、武田信守が父の菩提を弔う為に既存の荒廃した寺を改宗し、寺号も現在のものにし庇護したそうです。

では、元々あった“荒廃した寺”というのが、また興味深い話が残っていて、甲斐源氏は源義清とその息子である清光が1130年に入国し歴史が始まっていくのですが、この息子の清光が開基した真言宗寺院であって、寺号を「清光院」といったそうです。
清光は八ヶ岳南麓の逸見(へみ)を本拠地としていたので石和に寺を開基したというのは不思議な感じがしないでもないのですが・・・。この寺を改宗したのが武田信守ということのなります。

武田信重の墓
成就院の案内看板

武田信玄の時代に甲府へ!

武田信玄は居城である甲府のつつじが崎城下にこの成就院を移し信玄の正室である三条夫人の菩提寺とし法名にあわせ「円光院」と寺号を改称し臨済宗「甲府五山」としたのでした。
笛吹市石和町に残る成就院は少し前までは正直、寂れた感がありましたが現在は改修工事が終わり、武田家の歴史を垣間見れる史跡となっています。

浄土宗 六角山成就院(ろっかくざんじょうじゅいん)
  笛吹市石和町小石和372
JR甲府駅南口から路線バス「奈良原行き」
  小石和下車すぐ

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「一蓮寺」に伝わる宝物の数々!重要文化財をはじめ県・市指定文化財が期間限定公開!

釈迦三尊十八羅漢図

甲斐の中世以後の歴史を知ることができる貴重な宝物

一蓮寺については以前このブログで紹介しましたが、今回期間限定で所蔵する宝物が公開されるとのこと、喜び勇んで見学に行ってきました。
一蓮寺はこれまでも何回か訪れたことはあったのですが、どこに貴重な宝物殿があるのかは全く知りませんでした。
本堂の後方に小さいながら綺麗な造りで蔵のような建物があり、名称は「遊故館」というそうです。「ここにあったのかぁ!」と新たな発見に心を躍らせながら館内に入りました。

小さな空間に貴重な宝物がいくつも!

外観と同様に、館内も綺麗で狭いながら貴重な宝物がガラスケースの中に展示されています。まず目に入ったのは正面奥に飾られていた重要文化財「釈迦三尊十八羅漢図」です。(上部写真)
鎌倉時代のものということで非常に貴重な仏教芸術であることがヒシヒシと感じられます。
また「阿弥陀三尊来迎図」は鎌倉時代と室町時代の2つが並べて展示されていましたが、ほぼほぼ同じ構図でありながら室町時代の作品の方に妙に威厳を感じました。

手前が室町時代の「阿弥陀三尊来迎図」
鎌倉時代の「阿弥陀三尊来迎図」

また木造の「阿弥陀如来立像」も鎌倉時代からの歴史を感じさせるもので見ていると心が引き締まる感じです。

阿弥陀如来立像

知る人ぞ知る、あの「一蓮寺過去帳」が展示されています!

室町時代からの記録を残す「一蓮寺過去帳」

山梨の歴史を学習していると、甲斐国の歴史を語る上で重要な資料としてこの「一蓮寺過去帳」が出てきます。
今回の宝物展の一番の楽しみであったのがこの過去帳。実際に目にすることができました。

上記写真の右下には新羅三郎義光・・・・という記載も見られ、甲斐源氏の歴史の経過を見てとることができます。この過去帳でしか確認できない事柄もあるとのことで、山梨の歴史を探る上で非常に重要かつ貴重な資料となっています。
また、後醍醐天皇の勅額も見ることができ、有意義な時を過ごさせていただきました。

左:後醍醐天皇御宸筆扁額 「一蓮寺」 ※一は弌の字で記載
右:後村上天皇御宸筆扁額 「稲久山一條道場」

過去のブログ

https://hkpt.net/event/ichirenji/

一條道場稲久山一蓮寺
  甲府市太田町5-16
JR中央線甲府駅(南口)からバスで約10分(遊亀公園下車徒歩1分)
ホームページ:http://www.ichirenji.jp/

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「国衙八幡宮」、「府中八幡」、「甲斐総社八幡神社」へ 武田家の武運長久を祈願した神社の変遷

武田家の氏神となった八幡神社 その始まりは石和から

甲府駅から武田神社へ向かい、途中を東側に入った静かな場所に八幡神社があります。社殿の背後には小高い丘があり一説には古墳があったとも言われています。石柱には甲斐総社八幡神社と記されているので、ただならぬ感じがします。

八幡神社といえば源氏の守り神であるので当然武田家も氏神としてお祀りしました。その歴史の流れを見ると元は笛吹市にある「国衙八幡宮(現石和八幡宮)」が始まりでした。
甲斐国において最初に武田の姓を名乗った武田信義。その長男忠頼をはじめ甲斐源氏の勢力拡大を警戒した源頼朝によってことごとく殺されてしまった為、五男であった信光(石和五郎という)が武田家を継承することになりました。この信光が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し「国衙(こくが)八幡宮」として石和に祀ったのが始まりです。

石和八幡宮

石和八幡宮は近年、火災により消失し新たに再建されたため見た目は新しいが歴史は古い神社です。
この時代は石和(及びその付近)が政治の中心地であったようで甲府(甲斐府中)が政治の中心になるのは武田信虎の時代を待つことになります。

府中八幡がつつじが崎館の西側に遷座

1519年に武田信虎が現在の武田神社がある、つつじが崎に館を移転するに伴い館西側に八幡宮を遷座、これが「府中八幡」といわれています。初代守護の信光の「国衙八幡宮」から信虎・信玄の時代の「府中八幡宮」を通して甲斐国総社八幡社として神社を統制する中心であったようです。国中の160の神社が2社ずつ交代で二日二夜、武田家の武運長久を祈願したとのことで、決してお祈りが途切れることがなかったと言われています。
現在この府中八幡宮は「古八幡」という名で残ってはおりますが、小学校の建設に伴って境内の敷地を市へ提供するなどし、今は地元自治会館の棟続きのお社に祀られているのですが、とても狭い一角にあるのでちょっと残念な気がします。もっと大々的に歴史遺産として残してもらいたい気がします。

古八幡が入る自治会館
左側に「峰本古八幡神社」と書かれている
右側のドアを開けて中に入る
古八幡神社

武田氏滅亡後、甲府城築城に伴い現在の場所に移転

現在の甲斐総社八幡神社は甲府市宮前町にあります。これは甲府城を築城した浅野長政(豊臣秀吉五奉行の一人)が遷座したものです。社殿の背後には古墳と言われている小高い丘があり、草が生い茂っていますが、上まで登ると大きな石がたくさんあり、ある意味神秘的な雰囲気があります。石の中には“かえる”によく似た石もありパワースポット的な場所とも言えるでしょう。
通常は地元の子供たちが広場で遊んだりする、地域に根ざした神社で一般的な参拝者はほとんで見かけることはありません。
鳥居をくぐった右側にある池の辺りには信玄公が曽我五郎の生まれ代わりだという「夢見山伝説」の案内もあります。

甲斐総社八幡神社の鳥居
社殿
通称“かえる石”と呼ばれる大きな石
鳥居をくぐってすぐ右手にある池

甲斐総社八幡神社・・・甲府市宮前町6−47
甲府駅北口から徒歩15分
ホームページ:https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/1064  

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武田氏の源流 “甲斐源氏”の発祥の地を訪ねる!義清神社、谷戸城、逸見神社

甲斐国に大きなうねりを巻き起こした源義清と清光

戦国時代の武将として名高い武田信玄公。その父である信虎公、また信玄の後を継いだ勝頼公もその名を今に残す名高い武将でした。
その武田氏の源流をたどると源義清(よしきよ)、その息子清光(きよみつ)にさかのぼります。朝廷から甲斐国への配流を命じられ常陸国(茨城県)から甲斐国へとやってきました。西暦1130年、そこから甲斐源氏の歴史が始まるのでした。

最初に土着した「市河荘」、そして清光は逸見(へみ)の地へ

義清、清光親子が最初にやってきたのは「市河荘」(いちかわしょう)といわれた甲府盆地の南部にあたる荘園でここを勢力基盤としたといわれています。
現在の甲府市南に隣接する昭和町には「義清神社」があり、本拠地であったようです。(一説にはさらに南部の市川三郷町の平塩岡といわれる地域が本拠地であったという説もあり)

義清神社

また神社の近くには「おこんこん山」という塚があり義清の墳墓であるといわれています。

そして息子清光は八ヶ岳南麓の「逸見荘」へ

義清が市河荘で勢力を拡大する一方、息子清光は逸見(へみ)荘へ目を付けここを本拠地としたことから逸見清光といわれます。(逸見とは八ヶ岳南麓一帯の古い地名)
現在の北杜市になりますが、旧跡が多く残っておりその一つに谷戸城跡があります。城といっても戦国期の石垣を積み上げた城ではなく、地形にあわせ土塁や空堀を配した円状の形をした平山城です。9月上旬に訪れましたが、草刈りもしてあって見学しやすい状態でした。

ただ、この手の城は初めてだったのでどう歩いて行けばいいのかよくわからない感じで最初戸惑いました。まぁ、分かりやすければ城の意味がないのでしょうが・・・(笑)
国の史跡として指定されてはいますが、認知度は決して高いとは言えない歴史遺産。もっと広く知れ渡り甲斐源氏の歴史の中での武田氏他の活躍を知ってもらいたいと思います。

谷戸城案内

谷戸城の鎮守・八幡神社と一緒になった「逸見神社」

逸見神社拝殿

逸見神社は元々は諏訪明神を祀った神社で逸見冠者清光以来、逸見氏代々が崇拝するうちに逸見神社と称するようになったのが始まりのようです。確かに真っ先に目がいったのは神紋で「梶の葉」が描かれていたので、諏訪大社関係?とは思いました。
平成12年に谷戸城の鎮守としてあった八幡神社を逸見神社内に移設新築したとのこと。両神社の神殿は並んで建っていることになります。(天候が悪化したため神殿までは見れませんでした)
また八幡神社の鳥居や灯籠なども境内に移設したとのことで二ノ鳥居には「八幡神社」と書かれています。

郷社逸見神社の石柱が建っている
一ノ鳥居には「逸見神社」名
参道を進むと二ノ鳥居があり「八幡神社」と書かれている
三ノ鳥居は朱色で塗られている
神楽殿は唐破風があしらわれていて立派

この神社から少し離れたところには「清光寺」といって清光が開基した曹洞宗寺院もあります。(今回は残念ながら行けず・・)
この逸見の地からその後の甲斐源氏の活躍が始まったと言えるでしょう。清光の次男「信義」が甲斐国で初めて武田の名を名乗ったのが1140年、そこから武田家17代当主である勝頼が自刃し滅亡する1582年まで甲斐武田氏は著しい躍進を遂げるのでした。

義清神社…山梨県中巨摩郡昭和町西条4265
ホームページ:https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/5045

谷戸城…山梨県北杜市大泉町谷戸260
ホームページ:https://www.hokuto-kanko.jp/sp/sakura_yato_castle_ruins

逸見神社…山梨県北杜市大泉町谷戸1143
ホームページ:https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/6174

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“甲府盆地湖水伝説”を今に残す、甲府の中心に鎮座する神社 穴切(あなぎり)大神社

甲府盆地が湖だった⁉︎その水を抜いた伝説が伝わる神社

甲府駅のすぐ南に位置する甲府城。この天守台に登ってみると四方八方を山に囲まれていているのがよくわかります。周辺の高台から見ればなおさら甲府が盆地であることをしみじみ感じることができるでしょう。
さて、この甲府盆地が“和銅年間“というから708〜715年、この頃はなんと、湖であったというのです。

甲府中心部からほど近い「夢見山」から甲府盆地と富士山を望む

当時、国司が見回りをしていて湖水の水を抜けば良い田んぼになるのでは?と考え、大己貴命(おおなむちのみこと)–大国主命(おおくにぬしのみこと)のこと– にお祈りし、盆地の南側を切り開いて湖水の水を富士川に流し込むことで、広大な田んぼを開墾できたというものです。その際に穴切明神として創建されたのがこの神社と言われています。

随神門(ずいじんもん)二層の楼門で1794年の建立とのこと
拝殿にかかる幕には武田家の家紋「武田菱」と八咫烏(やたがらす)が表されている
本殿は国重要文化財 一間社流造という形式で安土・桃山時代の作といわれる。

拝殿の横を通り裏手の本殿をみると立派な造りなのでびっくりしました。「一間社流造」(いっけんしゃながれづくり)という安土・桃山時代に造られた作のようです。側面から見ると前後に水が流れるような線をもっていることから流造といわれるとのこと。

神楽殿 結構立派なつくり
(左)塩釜社  (右)道祖神社

湖水伝説にはいくつか説があるのですが、この付近からは縄文土器も発掘されているので、古くから人が生活していたことがわかっており、したがってこういった伝説も多く残っているのではないでしょうか。
実際のところ、湖水だったのは何万年も前のことでしょうが、こういった伝説が甲府の中心に言い伝えられているのは面白いことですね。
小さい神社ですが、歴史と趣をひしひしと感じられる街中の神社です。

穴切大神社…甲府市宝2−8−5
甲府駅から徒歩15分程
ホームページ:http://www.anagiridaijinja.jp/

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武田勝頼によって築かれた武田氏最後の居城「新府城」。決戦に備えた難攻不落の城であったが・・・

本丸跡

武田氏の築城技術を結集し完成を目指した最後の城

武田信虎が甲府市のつつじが崎に館を造り、その後信玄、勝頼と3代の居城となっていましたが、勝頼は甲府の西方、韮崎の地に新たな城を築城し移転することにしました。
織田軍の侵攻に備え、強固な城を造ったのですが、予想より織田軍の侵攻が早かったため、未完成のまま入城し最後は勝頼自身が火を放って退去するという戦国時代末期の動乱の中で悲しい運命を辿った平山城です。

歩いていると至る所に案内・説明看板が設置されているので分かりやすくなっています。
新府城想定復元図がありました。

大手門前には武田流築城の特色である「丸馬出し」とその前方に「三日月堀」が配置されていたようです。また西側は七里岩の断崖と釜無川によって守られた要害です。
この場所に築城したのは信濃方面から侵攻してくる織田軍を迎え撃つためといわれております。
新府城に来て分かったのですが、思っていたよりも虎口や井戸跡などしっかり残っているのに驚きでした。特に井戸は直径20m以上はあるのでは・・・という大きさです。説明看板が無ければ大きい凹みと思って見過ごしていたことでしょう。

また本丸は結構広い敷地面積があり、現在は「藤武神社」があります。これは勝頼が鎮守として祀ったのが始まりといわれています。

訪れた日は草なども刈られていて手入れがされている感じでした。また本丸の一部エリアは発掘調査がされています。

また「武田勝頼公霊社」と書かれた石祠が建立されていてその横には勝頼公また武田氏を讃えたこれまた大きな石碑があります。

勝頼自らによって火が放たれ・・・

織田軍の武田攻めが勝頼の想定よりあまりに早く、この新府城は1581年末に一年足らずで一応の完成を見るが、その翌年に武田家は滅亡します。甲府の府中に対してこの地を新府と名づけ、死守する決意でいた勝頼でしたが敵方への投降者が相次ぎ、この城は勝頼が入城して70日程で自らが火を放って退城するという何とも悲劇の城となってしまいました。

今回は駐車場から西出構えから乾門桝形虎口、二の丸そして本丸と抜けて見学しました。
さすがに暑さの中で249段の神社参道を登る勇気はなく、降りるのに利用。残念ながら大手門方面は時間の関係で見ることができなかったので次回の楽しみにとっておきます。

新府城跡 韮崎市中田町中條
     JR中央線新府駅から徒歩15分
HP:韮崎市観光協会
https://www.nirasakikankou.jp/kankou_spot/jinjya_bukkaku_rekishi/meisho_kyuseki/6562.html
     

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華光院(けこういん) 真言密教の極み「火渡り祈願祭」が3年ぶりに開催!無病息災と世界平和を祈願

甲府市の真言宗寺院である「真如山華光院良林寺」で3年ぶりに春の大祭である「火渡り祈願祭」が4月10日に開催されました。
噂には聞いていましたが、実際に見るのは初めて。
この華光院は武田信虎公が甲府のつつじが崎へ館を移した後、紀州から本尊「三宝荒神」を勧請しお堂を建てたのが始まりで、信玄公が現在の場所に移し寺名を名付けたと言われるので500年もの歴史があることになります。


10時過ぎに到着するとのぼり旗も上がり、境内には柴燈護摩壇が設置され、また露店も多く出店していてお祭り気分も高まります。

三寶大荒神ののぼり旗
境内に設置された柴燈護摩壇
露店が立ち並ぶ
お子様に人気だった魚つりゲーム

大勢の人が見守る中で、様々な儀式が行われていきます。初めて目の当たりにすると真言密教の神秘性を感じます。

山伏姿で入場する僧
弓を放つ法弓(ほうきゅう)という儀式

想像していたよりはるかに燃え盛る炎の中へ入っていくのに驚きです。

勢いよく火がついていく
火渡りを始める導師

華光院には「太子堂」という歴史を感じさせるお堂があるのですが、これは甲府城の本丸(天守台下)にあったものを1724年に移設したものです。甲府城建築物としては唯一現存するものなのでとても貴重で興味深いです。

華光院の“太子堂” 甲府城にある時は“毘沙門堂”と言われていたようである。
桜に映える太子堂
“甲府七福神めぐり”で毘沙門天を祀る

これまで“火渡り”はテレビやYouTubeで見たことはあったのですが、実際に見ると思っていた以上の迫力でした。
一般の人も炎が落ち着いてから渡ることができ、無病息災、そして各人それぞれの願いを祈って老若男女を問わず大勢の方が“火渡り”をしていました。

一般の方の火渡りの様子
遠くから見た華光院。煙が立ち昇っている

華光院 
  甲府市元紺屋町33 
  JR中央線甲府駅北口から徒歩20分
関連ホームページ:https://kofu-tourism.com/spot/381

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