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甲斐国鎮守の神とされてきた「甲斐奈神社」 白山大神、浅間大神を祀る歴史ある神社

「金手」(かねんて)という名前の由来は?

甲府駅から東側、JR身延線の金手(かねんて)駅近くに、甲斐奈神社があります。国道411号線で東から甲府中心に向かってくるとクランクしている所です。
そもそもこのクランクは江戸時代にできました。ここから城下町に入るという合図であり、また当然見通しが悪くなるので敵が攻めてきた場合に防御する役割もあります。
金手(かねんて)というのは旧町名でこのクランクが名前の由来です。大工さんが使う物差し「曲尺(かねじゃく)」に形が似ているところから曲尺→金尺→金手と変化していったといわれています。実際日本各地の城下町だった都市にはこのようなクランクはみられ、曲尺手(かねんて)という地名で残っていたりもします。

甲府東部のクランク
大工さんが使う曲尺(イメージ)

『延喜式』神名帳にも載る、甲府城を守る東部守護神

甲斐奈神社は元々は甲府駅から見てすぐ北東部にある愛宕山にありました。当時は“甲斐奈山”と呼ばれていたらしく、神社名の由来なのかと思われます。白山神社を祀るもので、延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)にも記載されているので古くからある、“老舗”の神社といえます。この延喜式神名帳は927年(延喜5年)当時に「官社」に指定されていた全国の神社の一覧です。山梨県内では甲斐奈神社を含め20社が数えられています。

拝殿
大国主大神の石像
甲斐奈神社の説明案内
境内末社の数もたくさん

甲斐奈神社の主祭神は白山大神(ククリヒメノミコト)と浅間大神(コノハナサクヤヒメノミコト)です。
元々は甲斐奈山(現愛宕山)に白山大神を祀ることに始まり、1519年に武田信玄の父、信虎が居館をつつじが崎に移すにあたって、現在の場所に移したようです。
その後1590年代に甲府城を築城する際、浅間大神を併祀して甲府城の東部守護神となりました。

綺麗に整備された境内は落ち着き感があり

道路から階段を上ると正面に社殿がありますが、左側に目をやるとちょっとした緑の草木とその間を通り抜けることができる小道が配置されていて趣があるとともに心に落ち着きを与えてくれます。またその奥には境内末社が数多く立ち並んでいて圧巻です。あらゆる事に神様の御加護がいただける、そんな感じがします。

緑地エリアが境内の一部に配置されている
境内末社入口。奥に見えるは延命長寿社
様々な境内末社が並んでいる
緑の中に赤い鳥居が映える

甲斐奈神社前の“通り名”について

この甲斐奈神社前を東西にはしる道路は「甲斐奈通り」と呼ばれています。神社名が通りの名前になったようですが、その昔は「山田町通り」といわれていました。これ「やまだまち」と読んじゃいますよね。実は「ようだまち」と読みます。
この町名になったのは柳沢吉里が甲斐の領主になる際(1709年)に、それまでは「伊勢町」といわれていたのを「山田町」に変えた経緯があったようです。
一説には、吉里は伊勢守(いせのかみ)だったので同じ名前では失礼だということで変更したようですが・・・

甲斐奈通りの標識

甲斐奈神社
  甲府市中央3丁目7−11
JR身延線金手駅から徒歩2分
ホームページ:https://www.kainajinja.com/

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甲府城三の堀跡沿いにあらわれた舟運・河岸の痕跡!城下町に行き交った引き船

舟運が物流の主軸を担った江戸末期から明治の河岸跡

甲府市城東2丁目に舟運・河岸の痕跡が見つかったと新聞報道があり、市教育委員会の「遺跡見学会」に参加しました。
この場所は甲府市の中心部で「連雀問屋街」の通りを東に来たところ。現代で考えると「こんな所まで舟が入り込むの?」と思ってしまう場所です。
新たな道路を造る工事過程で発見されたのですが、江戸時代末期、そして明治、大正、もしかすると昭和初期頃まで利用されていたのではないか、とのことです。

甲府城三の堀跡と遺跡発見現場

甲府城三の堀を利用し舟運を行なっていた。

甲府城下町の南端部分に位置するこの場所は町人街があった所で経済が盛んであったエリアです。ちょうど甲府城三の堀があり、富士川、笛吹川、濁川を経由し三の堀の水路で荷物を運んでいた、その最終地点である船着き場・河岸が今回発見されたというわけです。舟運は明治36年に鉄道の「甲府駅」が開通するまで日常的に利用されていて大量の物資を運ぶことができるうえに、陸路より早く江戸へ輸送できたとのことです。

江戸後期の地図。右下の赤丸が発見現場。
三の堀(現濁川)が曲がる部分に船着き場があった。

水路の石垣を見るとわかる河岸の事実

現在の水路(濁川)の石垣を見るとオレンジの左と右では石垣の積み方が違うことが分かります。しかもこのオレンジの位置は今回発見された遺構の南側壁面と位置がほぼ合致するため、オレンジ右側は舟を引き込むため開口していて後に石垣を積んで塞いだのでは、と想像がつきますね。

物資のみならず文化、流行の玄関口であったと思われるこの河岸。甲府城下の繁栄を支える重要な拠点であったといえるでしょう。

甲府城下町遺跡(舟運遺構):甲府市城東2丁目「文珠稲荷入口」
山梨県埋蔵文化財センターホームページ:https://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/

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甲府城・稲荷櫓(いなりやぐら)ー 約210年間を地震にも耐えた頑丈な櫓が復元

鬼門方角に位置する別名「艮櫓(うしとらやぐら)」が復元

1592年から1598年頃にかけて築城された甲府城。その中で鬼門である城の北東方角にあった稲荷櫓(いなりやぐら)は1664年に建築され、明治に入っての廃城令で破却されるまでの約210年間、地震にも耐えた頑丈な建物であったといわれています。その稲荷櫓は平成16年に土蔵づくりで復元したものです。

金箔鯱瓦が出土。その詳細がわかる資料館

稲荷櫓は当時、見張台としての役割、また鎧や武器を収める武器庫として使用されていたようです。現在復元後は資料館となっていて無料で見学することができます。
入って正面に目を引くのは甲府城跡から出土した鯱瓦(しゃちがわら)の資料。金箔が施され高さが132センチメートルあり、あの国宝「松本城」の鯱瓦よりも大きかったというのでビックリします。やはり甲府城には天守閣があって早い時期に壊され撤去されたのでしょうか?謎が深まります。

鯱瓦復元模型。現物はこの2倍だそうです。

当時の甲府城の大きさが分かる城全体模型が展示されている。

甲府城復元模型

現在も相当大きい城跡だと感じるが、当時の甲府城は現在の約3倍の大きさがあったと言われています。実際今の山梨県庁がある部分も「楽屋曲輪」といわれる城の一部であり甲府駅も「清水曲輪」に位置しています。そう考えると当時の甲府城の大きさは相当なものだったと言えましょう。2階スペースに復元模型が展示されています。細かな部分まで精巧に作られていてわかりやすいです。山梨県庁、甲府駅の位置説明も入っているので現状との比較がしやすく分かりやすいです。

出土した瓦や皿、また築城時の説明資料が分かりやすく展示されている。

石を割る際の道具類 
出土した「かわらけ」や皿類
石垣の積み方説明書き
甲府城には温泉が湧いていた!

いろいろ展示してある中で目を引くのは「甲府城内には温泉が湧いていた」というから驚きです。温泉のある城は他にはないでしょう。実際、殿様やお侍も温泉に浸かっていたのでしょうか。想像するとまた歴史ロマンが広がります。

稲荷櫓の周りにある展示

稲荷櫓へ昇る階段横には石垣に使う石の割り方が展示されていて、矢穴に矢をさした状態になっています。また稲荷櫓復元時の土蔵の壁の造り方を説明した展示もあります。最後に「稲荷」についてのご説明をしようと思います。この稲荷櫓がある場所は「稲荷曲輪」(いなりくるわ)というエリアになるのですが、ここに稲荷神社があったことから「稲荷」の名が使われているとのこと。現在は甲府城南側のお堀脇に鎮座しております。

青空に映える「稲荷櫓」。左に見える松の木は武田神社と同じ「三葉の松」

さまざまな魅力がある甲府城。甲府観光の折にはぜひ立ち寄ってみてください。

紅葉し始めた稲荷曲輪内の樹木と天守台
咲き誇った桜と稲荷櫓

甲府城稲荷櫓
  甲府市丸の内1丁目5−4 (舞鶴城公園甲府城跡)
JR中央線甲府駅(南口)から徒歩2分
ホームページ:https://kofu-tourism.com/spot/19

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甲府城 ー 高さは東日本最大級を誇る約400年前の野面積みの石垣に圧倒される

築城時期によって違いが見られる石垣

甲府城は1592年から1598年ごろに天下統一を果たした豊臣秀吉の命令によって築城されました。その目的は関東の徳川家康を監視するためです。
甲府城においては、いわゆる天守閣が「存在した」「存在しない」の論争がありますが、まず今回は甲府城の石垣について見ることとします。

甲府城は初期の石積み方式「野面積み」

「城が全国各地で築城される中で「野面積み」の石垣は早い時期に築城された城に見られる石積み方式です。別名「穴太積み」(あのうづみ)とも言われます。(近江の石積み集団「穴太衆」が開発した積み方)
石は甲府城の城内から採石された安山岩で、不足分は近くの山(愛宕山)から採石し運んだものを使用しています。城の南側には採石跡(石切場跡)が残されています。

石切場跡

野面積みの他には「打込接(うちこみはぎ)」、「切込接(きりこみはぎ)」といった石積み方式があります。

石垣の強度を確保するための工夫

石垣の角の部分はどうしても強度が弱くなりがちで、また上部に櫓(やぐら)など建物があるため強度を補う必要がありました。そのため積み方に工夫が見られます。
それが「算木積み」(さんぎづみ)という方法です。
算木積みは横長の石材を長い方と短い方を交互に組上げます。そして隅脇石(すみわきいし)を上下からはさむことで、角の部分を強化しています。

左右とも長辺(赤)が交互に置かれその間に
隅脇石(青)を挟んでいるのがわかります。

石垣の中はどうなっている?

石垣は石だけを積み上げているように思いがちですが、表面は大きな石が積み上げ、その裏には「裏込石」という水はけをよくするための小さな石が詰められていて、さらにその奥は「盛土」になっています。
したがって城にとって水はけ(排水)はとても重要です。雨水などが盛土や石垣内部にたまると石垣が不安定になるため効率よく排水する設備として「暗渠」(あんきょ)という穴が所々にあります。

甲府城石垣に見られる特殊性

甲府城の石垣には珍しいものが見られます。それは「兄弟石」と言われるものです。
一つの石を二つに割って石垣に使っていることからこの名前がついたそうです。
わかりやすいのは天守台の石垣の中央部にある「兄弟石」です。
(赤い部分)

拡大した写真が下です。

この二つの石はもとは一つの石でした。石を割る時は「矢穴」という切り込みを入れて割るのですが、その矢穴の位置がピッタリ合致しています。
(ちょっとキザギザになっている部分が“矢穴”)
天守台石垣にはこの他にも兄弟石がありますので探して見るのもまた楽しみです。

天守閣だけでない城の楽しみ

“城=天守閣”というイメージがありますが、城の楽しみ方はいろいろあり甲府城の場合はこの石垣を見るのが最大の魅力だと思います。甲府駅の目の前にありますのでぜひ立ち寄って見学してみてください。

桜が満開の甲府城(2022/3/29撮影)

甲府城
  甲府市丸の内1丁目5−4 (舞鶴城公園甲府城跡)
JR中央線甲府駅(南口)から徒歩2分
ホームページ:https://kofu-tourism.com/spot/19

【関連ブログ】

甲府城・稲荷櫓
https://hkpt.net/event/kofu-castle-inariyagura/

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「やまなしプラザ」は隠れた穴場 地下にひっそりとある“甲府城石垣展示室”

甲府駅南口から歩いて5分ほどの平和通り沿いにある茶色い大きな建物。ここは山梨県防災新館といって災害時等の防災拠点としての役割を果たすために2013年に完成した建物で県の行政組織も配置されているのですが、1階は「やまなしプラザ」といってジュエリーミュージアムやレストラン、県特産品ショップなども入っています。

「やまなしプラザ」が入る山梨県防災新館

その地下1階にひっそりとあるのが「甲府城石垣展示室」。これは防災新館建築時に発掘調査によって確認された甲府城の内堀(一の堀)の石垣なんです。
一旦は仮置き場に保管され点検後に移設復元したものなんですが、実は甲府城って現在の3倍の敷地面積があったのをご存知ですか?現在の甲府駅や山梨県庁舎などは昔の甲府城の中に建っているんですね。そう考えると甲府城って現在でも大きいと思うのですが、元々は相当な大きさであったということがわかりますよね。甲府城についてはまた後日取り上げたいと思います。

この木は胴木といって石垣の重みや水で崩れが生じないように基礎に木材を敷いた。
約13mを移設復元した築城時の主流であった野面積み(のづらづみ)による石垣

石垣の図面が飾ってあったので撮ってきたのが上の写真。胴木が一番下に敷かれているのが分かりますよね。根石から積み上げて合間には詰石、内部には裏込石など入れることで強度を保つんでしょう。その他にも算木積みといった石垣の隅部の強度を上げる技法もあったりで、昔の築城技術って本当にすごいといつも感心させられます。

かつての甲府城の大きさがうかがえます。城内地図の赤丸がやまなしプラザ位置

石垣の積み方についての説明があります。(野面積み、打込み接、切込み接)

築城された安土桃山時代から江戸時代にかけての城主、藩主の変遷など。

簡単な展示室ですが無料で見ることができ、また石垣についてや甲府城についてもその歴史に触れることができます。機会があったら訪れてみてはいかがですか?

やまなしプラザhttp://www.yamanashi-plaza.com/

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