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“甲府盆地湖水伝説”を今に残す、甲府の中心に鎮座する神社 穴切(あなぎり)大神社

甲府盆地が湖だった⁉︎その水を抜いた伝説が伝わる神社

甲府駅のすぐ南に位置する甲府城。この天守台に登ってみると四方八方を山に囲まれていているのがよくわかります。周辺の高台から見ればなおさら甲府が盆地であることをしみじみ感じることができるでしょう。
さて、この甲府盆地が“和銅年間“というから708〜715年、この頃はなんと、湖であったというのです。

甲府中心部からほど近い「夢見山」から甲府盆地と富士山を望む

当時、国司が見回りをしていて湖水の水を抜けば良い田んぼになるのでは?と考え、大己貴命(おおなむちのみこと)–大国主命(おおくにぬしのみこと)のこと– にお祈りし、盆地の南側を切り開いて湖水の水を富士川に流し込むことで、広大な田んぼを開墾できたというものです。その際に穴切明神として創建されたのがこの神社と言われています。

随神門(ずいじんもん)二層の楼門で1794年の建立とのこと
拝殿にかかる幕には武田家の家紋「武田菱」と八咫烏(やたがらす)が表されている
本殿は国重要文化財 一間社流造という形式で安土・桃山時代の作といわれる。

拝殿の横を通り裏手の本殿をみると立派な造りなのでびっくりしました。「一間社流造」(いっけんしゃながれづくり)という安土・桃山時代に造られた作のようです。側面から見ると前後に水が流れるような線をもっていることから流造といわれるとのこと。

神楽殿 結構立派なつくり
(左)塩釜社  (右)道祖神社

湖水伝説にはいくつか説があるのですが、この付近からは縄文土器も発掘されているので、古くから人が生活していたことがわかっており、したがってこういった伝説も多く残っているのではないでしょうか。
実際のところ、湖水だったのは何万年も前のことでしょうが、こういった伝説が甲府の中心に言い伝えられているのは面白いことですね。
小さい神社ですが、歴史と趣をひしひしと感じられる街中の神社です。

穴切大神社…甲府市宝2−8−5
甲府駅から徒歩15分程
ホームページ:http://www.anagiridaijinja.jp/

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武田家3代の詰城「要害城」 戦国期の山城の様相を今に伝える天然の要害 

要害城跡が残る要害山

つつじが崎の居館とセットで築かれた詰城

武田信虎がつつじが崎に居館を築いたのは1519年。翌年1520年に居館から北へ3キロ程行った所に危急の際に立て篭もる為の詰城として築かれたのが「要害城」です。
この頃は駿河の今川勢が頻繁に甲斐国へ侵攻してきた時期で、1521年には「飯田河原の戦い」があったといわれており、まさに現在の甲府の中心部から西へ2キロほどいったところまで攻め込まれたことになります。今川勢福島正成が率いる1万5千人の大軍を信虎は2千余人でこの戦に勝利したといわれています。
その戦いの最中に要害城で武田信玄が誕生しました。

要害城跡の主郭にある石碑。「武田信玄公誕生之地」と刻まれています。

主郭までは30分ほどで登ることができます。入口には「史跡 要害山」の石碑がありマップや説明文があります。

登山道入口に建つ石碑
いよいよ要害山の中へ入っていきます
史跡境界の杭
案内看板が有難い
曲輪跡
不動曲輪⁉︎
これは見事なお不動さん
やっとこさ主郭部分へ到着
信玄公誕生の石碑横にある山梨百名山の証

曇り空でしたが蒸し暑い日だったので、けっこう汗をかきました。主郭部は広くて創造していた感じでした。たまたま木々の間から遠くの景色を見ようとしたら、「おっと、富士山だ!」

主郭部から見る富士山

まさか富士山が見えるとは思っていなかったのでちょっと感動。
500年前も同じように富士山を望むことできたことでしょう。

門跡の石垣
野面積み?

本丸跡が770mなので気軽に登ることができると言えますが、途中それなりに険しい部分もあるので足腰に自信のない方は無理しない方がいいかもしれません。
また今回はうっかり、“諏訪水”といわれる井戸跡を身損ねてしまったのが残念!次の機会に!

要害山 
 甲府市上積翠寺町984
 甲府駅北口からバスで15分
 ホームページhttps://kofu-tourism.com/spot/54

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ついに始まる!甲斐善光寺は7年ぶり令和初の御開帳!本尊「阿弥陀三尊像」に祈りを捧ぐ。

7年に1度の御開帳が1年延期され4月3日から開催中

甲斐善光寺の御開帳は長野の善光寺と合わせ7年に1度実施されているのですが、新型コロナの影響で昨年春に開催できず、1年遅れての御開帳となりました。
山門には“御開帳”の横断幕が貼られ、境内には「回向柱」(えこうばしら)が立てられて気分も高揚します。

境内に立てられた回向柱

回向柱はご本尊の右手と「善の綱」で結ばれているので、柱に触れることでご利益があるとされているのですが、うっかり触るのを忘れてしまって・・・残念!

何度も訪れたことのある善光寺ですが御開帳時に訪れるのは初めて。500円支払って本堂へ入り「阿弥陀三尊像」を拝ませていただきました。残念ながら写真撮影は禁じられていて撮れませんでしたので参考に読売新聞オンラインの写真でご覧ください。

阿弥陀三尊像(参照:読売新聞オンライン)

まさしくありがたいお姿です。
今回の御開帳に合わせ観光バスで来られた団体様も見受けられ、徐々ではありますが観光も回復の気配が感じられ嬉しい限りです。といっても新型コロナは変異を続けているのでまだまだ安心はできません。コロナの早期の収束を祈り、善光寺を後にしました。

本堂入口
本堂から眺める山門

甲斐善光寺
  山梨県甲府市善光寺3丁目36−1 
JR身延線「善光寺駅」から徒歩7分
ホームページ:http://www.kai-zenkoji.or.jp/index.html

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華光院(けこういん) 真言密教の極み「火渡り祈願祭」が3年ぶりに開催!無病息災と世界平和を祈願

甲府市の真言宗寺院である「真如山華光院良林寺」で3年ぶりに春の大祭である「火渡り祈願祭」が4月10日に開催されました。
噂には聞いていましたが、実際に見るのは初めて。
この華光院は武田信虎公が甲府のつつじが崎へ館を移した後、紀州から本尊「三宝荒神」を勧請しお堂を建てたのが始まりで、信玄公が現在の場所に移し寺名を名付けたと言われるので500年もの歴史があることになります。


10時過ぎに到着するとのぼり旗も上がり、境内には柴燈護摩壇が設置され、また露店も多く出店していてお祭り気分も高まります。

三寶大荒神ののぼり旗
境内に設置された柴燈護摩壇
露店が立ち並ぶ
お子様に人気だった魚つりゲーム

大勢の人が見守る中で、様々な儀式が行われていきます。初めて目の当たりにすると真言密教の神秘性を感じます。

山伏姿で入場する僧
弓を放つ法弓(ほうきゅう)という儀式

想像していたよりはるかに燃え盛る炎の中へ入っていくのに驚きです。

勢いよく火がついていく
火渡りを始める導師

華光院には「太子堂」という歴史を感じさせるお堂があるのですが、これは甲府城の本丸(天守台下)にあったものを1724年に移設したものです。甲府城建築物としては唯一現存するものなのでとても貴重で興味深いです。

華光院の“太子堂” 甲府城にある時は“毘沙門堂”と言われていたようである。
桜に映える太子堂
“甲府七福神めぐり”で毘沙門天を祀る

これまで“火渡り”はテレビやYouTubeで見たことはあったのですが、実際に見ると思っていた以上の迫力でした。
一般の人も炎が落ち着いてから渡ることができ、無病息災、そして各人それぞれの願いを祈って老若男女を問わず大勢の方が“火渡り”をしていました。

一般の方の火渡りの様子
遠くから見た華光院。煙が立ち昇っている

華光院 
  甲府市元紺屋町33 
  JR中央線甲府駅北口から徒歩20分
関連ホームページ:https://kofu-tourism.com/spot/381

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鎌倉殿の13人 The 13 Lords of the Shogun 全国巡回展 in 甲府

NHK甲府放送局

鎌倉殿がやってきた!NHK大河ドラマ全国巡回展

毎週放送を楽しみにしている人も多いNHK大河ドラマ。小栗旬が主演の「鎌倉殿の13人」の全国巡回展がNHK甲府放送局で開催されています。館内では出演者やドラマ解説のパネルが展示されているほか、小栗さんの挨拶映像や作者三谷幸喜さんがドラマ説明を面白おかしく語っている映像もあります。

歴史説明パネル
ドラマイメージパネル
主要出演者パネル

VRで北条の館を360度見渡せる!

VRによる撮影場所を体感

展示スペースの一角にはVRによる北条館などの撮影現場を味わえる設備があります。が、イマイチ扱い方が分からず天地が逆になってしまったり…(やり方が下手なだけなんですが…)
でも、こういった機器があると写真パネルだけよりはリアリティを感じることができていいと思います。

撮影オープンセットは実際の北条館跡の近くにある!

通常こういったオープンセットは実際の場所から離れたところに作製されるパターンが多いと思いますが、この北条館オープンセットは伊豆の国市の北条館跡からほど近い場所に建設されているとのこと。これは是非行ってみたい!

ところで “13人” って誰なの?

三谷幸喜さんが映像でドラマの説明をしているのですが、相変わらず面白かったです。
13人を覚えるには上の写真のとおり「ひかわなにお ほほはあみあみ」だそうです。(頭文字を覚えてもその後の名前の続きが出てこないなぁ…)
また三谷さんの北条家の説明がウケました。
北条家をサザエさん一家になぞらえて、「サザエ(政子)とカツオ(義時)が結託してマスオ(頼朝)が死んだ後、波平(時政)を家から追い出したと。(笑)

出来れば甲斐源氏棟梁の武田信義についてもう少し紹介があればよかったのですが…、致し方ないです。
これからドラマは益々面白くなるでしょう。個人的には承久の乱の際の北条政子の演説場面を楽しみにしています。

左が義時(小栗旬)、右が頼朝(大泉洋)が実際に着用した衣装

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式HP
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

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“厄地蔵さん”で知られる「塩澤寺」 山梨に春をつげる、厄払いの願いを聞き届けてくれる祭礼

弘法大師、そして空也上人によって開かれた歴史ある寺院

福田山塩澤寺は甲府市の北西部、湯村温泉郷に位置しています。この辺りは中世には「志麻庄(しまのしょう)」という荘園であったため、湯村温泉は古くは「志麻の湯」と呼ばれていたそうです。1200年ほど前に弘法大師が開湯したといわれ、「武田信玄の隠し湯」としても知られています。また太宰治が執筆のため滞在した宿もあることで有名です。
塩澤寺も弘法大師が808年に諸国行脚された際にこの地に立ち寄り開創したとのこと。その後955年空也上人が開扉仏を建立安置したことから塩澤寺の歴史が始まりました。

参道から見る塩澤寺
地蔵堂は国指定重要文化財に指定

年に2日間だけ厄払いの願いを聞き届けてくれる大祭

毎年2月13、14日は「厄除地蔵尊大祭」で、この2日間は参拝者の願い事を聞いてくれると言われており、通常は県内外から10万人という大勢の参拝者が訪れ、露店も100軒以上も連なるとても大きな祭でありかなりの賑わいをみせます。特に山梨(甲府近郊地域)では“厄年”にあたる人はこの大祭にお参りに来て厄除をする人が多いです。
それくらい“厄除け”、といったら“塩澤寺”というように知れ渡っています。

大祭用に設置されたスロープ
地蔵堂

コロナ禍で通常の大祭とは違いましたが、新型コロナウイルス感染が収束し、そして大勢の人の波でごった返す「厄除地蔵尊大祭」が再び戻ってくることを切に祈るばかりです。

「南無地蔵菩薩」の旗がたくさん!
露店もあって祭りの雰囲気がありました!

福田山塩澤寺
   甲府市湯村3−17−2
甲府駅から路線バス利用、「湯村温泉入り口」下車 徒歩約10分
ホームページ:http://www.entakuji.jp/index.html

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“大神(だいじん)さん”で親しまれる「節分会」 春の訪れをつげる甲府の恒例イベント

甲府盆地に春の訪れを告げる「大神宮祭」

2月4日は立春。暦の上では春なのですが甲府は寒い日が連日続いています。例年より妙に寒く感じるのですが・・・
さて2月3日は言わずと知れた“節分”。甲府では毎年恒例の「大神宮祭」が行われました。
残念ながら新型コロナウイルス感染拡大のため、規模は縮小しての開催でした。本来なら露店も立ち並んで賑やかに行われるのですが・・・、残念です。

2つの大神宮

“大神(だいじん)さん”で親しまれているこの節分会は、天照大神を祀る「柳町大神宮」と、豊受大神を祀る「横近習(よこきんじゅ)大神宮」があり、450m程離れています。
この間を御神輿を担いだりするのですが、感染防止のため軽トラックの荷台へ乗せて運ぶという、コロナ禍でも安全を確保し出来る範囲で実施してくれた実行委員会の方々には感謝です。
またエリアを限定して、だるまや熊手など縁起物も販売されていたので買い求める人も少なからずいました。

柳町大神宮拝殿
やや大きめの大神宮の提灯に灯が灯る

伊勢信仰を現代に伝える

この2つの大神宮は武田信玄父、信虎がつつじが崎館を構築する際に、横近習大神宮は伊勢から武田城下に勧請、また柳町大神宮(本来は神明社という)は石和から遷座させたもので、その後甲府城築城に伴い浅野長政が両方とも現在の場所に遷座したようです。節分には年男が鬼の面をかぶり街へ繰り出す大神宮祭は江戸時代から親しまれています。
柳町大神宮と横近習大神宮と両方を参拝すると「お伊勢参り」と同じ効果があると言われてもいます。

横近習大神宮
境内の札所でお守りや熊手など販売

ちなみに横近習という名、「よこきんじゅ」と読む(「よこきんじ」という場合もあり)のですが、難しい名ですよね。この大神宮がある昔の町名が「横近習町」といい、隣接する通りが東西に走っていて「横近習町通り」と言います。江戸期に幕府の近習(主君に仕える側近)の屋敷があったことから地名になっています。
そのすぐ西側には「竪近習(たつきんじゅ又はたつきんじ)町」がありました。さらにそのすぐ南側にある町、「山田町」というのですが、これを「ようだまち」といいます。「やまだ」といってしまいますよね。また東側には海産物を扱う「魚町」があったことから「魚町通り」もあります。

横近習町通りの看板と横近習大神宮
ローマ字表記は「よこきんじゅまち」
たつきんじゅまち通りの看板
すぐ東側にある「魚町通り」

ミニだるまを買いました!

横近習大神宮で売っていた「ミニだるま」。オーソドックスな赤色もありましたが、白色を買ってみました。他にも黄、緑、ピンクなど色とりどりのだるまがあって楽しいですよね。
ちなみに1個300円でした。
来年は以前のように大々的に節分会ができることを祈っております。

白色のミニだるまを買ってきました
黄、緑、ピンクなどのだるまもありました

柳町大神宮:甲府市中央4丁目5 (甲府駅から徒歩15分)
横近習大神宮:甲府市中央2丁目7−23 (甲府駅から徒歩11分)

甲府大神祭:https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/saijiki/daijin.html

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武田信玄にまつわる「夢見山」伝説  信玄は曽我五郎の生まれ変わり? 戦の吉凶を占う?

甲府市の愛宕山にある「夢見山」

数々の伝説が残る「夢見山」

「夢見山」は甲府市の愛宕山の北部にある標高439mの小高い山。現在は山梨県立愛宕山少年自然の家とこどもの国の施設エリア内の遊歩道沿いにあります。歌川広重「不二三十六景」の「甲斐夢山裏富士」として描かれ、甲斐八景の「夢山春曙」として歌に詠まれたりもしています。絵に描かれ、歌にも詠まれる風景の美しい夢見山がどんなところなのでしょうか?

安山岩の岩山。足元には注意必要。
すぐに頂上。看板が立っています。
歌川広重「甲斐夢山裏富士」
夢見山からの富士山

そもそも夢見山の伝説とは何なのか?

信玄生誕時の伝説として以下のような伝説があります。
1521年、今川家の福島正成の軍勢1万5千が甲斐に侵入し戦となりその戦況を父信虎が夢見山でうかがっていると急に眠くなり石を枕に寝入ってしまった。すると夢の中に現れた男が「今、甲斐国主として誕生した男児は曽我五郎の生まれ変わりだ」と告げた。すると城から若君(信玄のこと)誕生の知らせがあり喜んだ信虎は勝千代と名付けたという伝説。しかし勝千代の右手が握ったままで開かず、天桂和尚に相談したところ「城の東にある池で洗えば手は開く」とのことで言われたとおりにすると手は開き、中から金龍の目貫(刀剣の柄を留める目釘に付ける装飾)が出てきた、というもの。(異説もあり)
ところで曽我五郎って知っていますか?

甲斐惣社八幡神社に建つ夢見山伝説の説明

曽我五郎は鎌倉時代の仇討ちで有名だった。

曽我五郎について調べていたら、山梨県立博物館のイベントで「曽我物語図屏風」の展示が行われるとの情報を得て、早速行ってみました。まさにグッドタイミング!

山梨県立博物館で2022年2月21日まで開催中

昔、伊豆の国で曽我兄弟(兄:十郎祐成、弟:五郎時致)がお家の領地問題で父(河津三郎祐重)を工藤祐経によって殺されてしまった。幼かった兄弟は復讐を誓い、兄十郎22才、五郎20才になったとき源頼朝が1193年に富士の裾野で1ヶ月行った「富士巻狩」で仇討ちを遂げた。兄十郎はその場で打ち取られ、弟五郎は鎌倉へ護送中、静岡の鷹岡で首をはねられたのだった。
父の仇討ちの話を聞いた頼朝が曽我兄弟の意志に感心して富士市に「曽我八幡宮」を建てた。近くに「曽我寺」もあり今でも供養祭が盛大に行われているそうです。
日本三代仇討ちの一つで仇討ちのはしりとなった事件。
(江戸初期:伊賀越えの仇討ち、江戸中期:赤穂浪士討入り)
この話は語り継がれて南北朝時代には仮名本「曽我物語」となりさらに能や浄瑠璃、歌舞伎の題材となっておびただしい数の作品が世に生み出され人気を博したそうです。

大泉寺の武田三代の五輪塔のそばに「曽我兄弟供養塔」があるのは信玄が戦場で見た夢で曽我兄弟から供養をたのまれたなど諸説あります。(大泉寺は夢見山のすぐ西側にあります)

大泉寺境内
武田三代のご廟所
曽我兄弟の供養塔

信玄が戦の吉凶を占った伝説

信玄が戦の伝説として以下のような伝説があります。
信玄が夢見山の山頂にある大きな石に腰を下ろし眠っていた。
すると夢の中に、三味線を1曲奏でてくれるという美女が現れた。しかし弾き始める前に目が覚めて気がつくと信玄の体中に蜘蛛の糸が巻かれていた。それ以来、蜘蛛はいつも信玄の枕元に現れて、戦の吉凶を占ってくれたそうです。
夢見山にはいろいろな伝説がありますが、それだけ昔から世に知られた山だからでしょう。

夢見山麓にある稲荷神社(大泉寺東側)
夢山稲荷尊と書いてある

信玄と曽我五郎の関係は?

曽我五郎がどういう人かは分かりましたが、なぜ信玄が曽我五郎の生まれ変わりというのでしょう?いろいろな見解がありますが一つには武田信光(石和五郎)以来、武田家は幼名で五郎を名乗らすことが多い(信昌、信縄、信虎など)ことが、曽我五郎に結びつけて語り継いだのではないかと思われます。


大泉寺
甲府駅北口からバス5分・「武田3丁目下車」バス停下車徒歩10分
https://kofu-tourism.com/spot/174

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日本100名城の「武田氏館」(つつじが崎館) 武田神社に残る館の痕跡から武田氏三代を垣間見る!

武田氏館大手門跡

室町将軍家「花の御所」を模した武田氏館

現在武田神社がある場所が「つつじが崎館」といわれた武田氏三代(信虎、信玄、勝頼)の館跡です。
1519年に信虎が川田(甲府の最東部)からこの地に館を移居しました。館の構造は京の将軍家「花の御所」を模倣、その後の城下町造営についても京の条坊をイメージするもので信虎の京都への意識が強く見てとれます。
館は当初は今残る城の痕跡よりずっと小さな作りで主郭部(東曲輪と中曲輪…現在の神社本殿、拝殿、社務所等がある部分)のみで、以後徐々に郭を増設したようです。
西曲輪、味噌曲輪、隠居曲輪、無名曲輪、梅翁曲輪といった郭ができています。

武田氏館(つつじが崎館)見取り図

「大手門」は東側にあった!

現在の武田神社は甲府駅から北へ真っすぐ上ってくると、真正面に神社入口がありますが、武田氏館の大手門(大手虎口)は東側にありました。惣堀、土塁、石塁が設置されていて敵が直進出来ない構造であったとともに、武田流丸馬出しと三日月堀もあったことが発掘調査で確認されています。

西曲輪

「西曲輪」は信玄の嫡男である義信が今川義元の息女嶺松院との婚儀に伴い新たに増設した曲輪。北、南に枡形虎口(出入口のこと)があり、南側虎口を出た部分は「丸馬出し」が設置されていたようです。
馬出とは虎口の外側に作った防衛用の曲輪で、これがあると敵は一気に攻め入ることができません。また馬出しに兵を配置させて弓・鉄砲で攻撃もできるため攻守に優れたものです。武田氏が作る城は「丸馬出し」が主流でした。(北条氏は「角馬出し」を多用したようです)
また西曲輪と主郭部は土橋でつながっています。

稲荷曲輪

中郭部の北に「稲荷曲輪」があったようで、城の中心に独立して位置しています。館の鎮守「御崎社」を稲荷明神として祀っていました。武田氏滅亡後は御崎神社として市内美咲2丁目に遷座しました。
また中郭部の東北方向に位置する場所(現在の宝物館裏辺り)にも毘沙門堂、不動堂などが設置されていたようで武田家の信心深かさが分かります。
稲荷曲輪には現在は小さな石造の祠3基とキツネ像が置かれています。

味噌曲輪、無名曲輪、隠居曲輪は発掘調査中

武田神社の北側(裏側)には各種の曲輪があったことが分かっているが現在は発掘調査中の状況です。何かしら新しい発見があればいいですね。
西曲輪と味噌曲輪方向にも枡形虎口があって土橋でつながっています。

味噌曲輪…食糧、諸物資を貯蔵していた施設(推定)
無名曲輪…使用目的は現在のところ不明。名前もないので無名曲輪といわれている。
隠居曲輪…信虎が駿河へ追放されたのち、大井夫人(信玄の母)が隠居暮らしをした場所。

以前から気になっていた「北側虎口」

中郭部の北に位置する虎口(後には隠居曲輪へもつながる虎口)は現在は利用できなくなっていて、しかも草木に覆われているためこれまでどこがそうなのか分からずじまいでした。冬のこの時期に探してみたところ草木の合間から土橋があるのを発見できました。周囲を空堀が囲っている中に土橋がありました。

梅翁曲輪は徳川家康家臣・平岩親吉が作ったか?

梅翁曲輪は西曲輪を出た南側に作られたもので、1582年の武田氏滅亡後、徳川支配(1583〜90)になった際、平岩親吉が作った可能性が大きいと言われています。
その後豊臣秀吉支配になったのが1590年。それから甲府城築城が始まり完成するのが1598年前後なので少なくともその間は武田氏館が領国支配の政治的中心であったようです。
また中郭部には天守台が残っており、これは1592年頃、加藤光泰が築いたといわれています。(天守台があるエリアは立入禁止のためどういったものか分かりません)

そして武田の城下町が成立していった

武田氏館周辺に重臣の屋敷を、館南西近くには有力家臣の屋敷を置き、そして城下町南部は商人・職人が居住した地域だったようです。また館周辺には武田氏の氏神を配置するなどし城下町を展開していき、すでに賑わっていた城下町南端(一条小山:現甲府城)の一蓮寺門前町も加えて一大城下町を作り上げ、現在の甲府市の礎となったのです。

武田神社(武田氏館跡)
  甲府市古府中町2611
JR中央線甲府駅(北口)からバスで約10分(武田神社下車)
武田神社http://www.takedajinja.or.jp/1_jinja.html

【関連ブログ】

「武田信虎公が創建した甲府(甲斐府中)」
https://hkpt.net/event/kaifuchu-jyokamachi/

【おすすめツアー】

⭕️歩いて甲府の街歩き 歴史再発見!プライベートツアー
「甲府のまち ウォーキング・プチツアー いにしえコース」(案内ガイド・昼食付)

⭕️甲府のメイン観光地をめぐる王道コース!

甲府観光ツアー専門.
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武田信虎公が創建した甲府(甲斐府中) つつじが崎へ館を移居 防衛体制と城下町を確立

甲府(甲斐府中)のはじまり!開府500年

武田信玄の父、信虎は1507年、14才で家督を継いで甲斐国主(守護)になりました。戦国時代真っ只中で甲斐国も武田と同族の在地領主や在地豪族との抗争を繰り返す中で、石和(川田)にあった館を小松の里にある相川扇状地・つつじが崎に移居しました。それが1519年のことだったので、2019年で開府500年になりました。なぜ信虎は館を移居したのでしょう?

甲府城下町イメージ

相川扇状地・つつじが崎は防衛と城下町づくりに最適な場所

相川扇状地は、幅2キロ、奥行き3キロほどの規模。甲府盆地を南に見下ろす位置に三角形状に展開、東西外縁を藤川、相川があってその外側を山々が囲む天然の要害と言えましょう。
まず館の北東2.5kmにある丸山に立て籠ることを目的にした詰城である要害城を築き、南西に位置する湯村山に支城(湯村山城)をつくり、南東に位置する愛宕山(当時は甲斐奈山)には砦を設け、扇状地南端に位置する一条小山にも防衛の一翼を担う砦をつくることで甲斐府中の防衛体制を完成させました。
館南には城下町を作るため南北に5本の基幹となる道路を通し、これらの基幹道路に東西通りが交わり、それはまさに京都の条坊を思わせるようであったそうです。
これは信虎が戦国大名として武田氏の権力・権威を強烈にアピールしたものと言えるでしょう。

愛宕山北部(夢見山)付近から南方を望む
湯村山城跡より南方を望む
甲斐府中の道路イメージ

5本の基幹道路もまっすぐではなく、部分的にクランク状に曲げるなどして仕上げることで敵が攻めてきた時に勢いを削ぐような造りになっており、これは今でも痕跡が残っています。
下記写真は上記イメージ図の「広小路」の一部。

南から北上すると大きく左に曲がりすぐ右へ曲がっている。
若干ではあるが右へずれる感じでクランクしている感じ。

城下町の展開

つつじが崎館周辺には重臣の屋敷を置き、南西近くには有力家臣の屋敷を置きました。
城下町南部には商人や職人が住む地域を置くとともに、東西の入口となるエリアには八日市場、三日市場をそれぞれ開設した。その時すでに一条小山南側には一蓮寺門前町が広がっていて賑わっていたようです。
また武田氏に関わる神社仏閣が他所から館近くに移されたり、建築されたりして徐々に甲府の町が城下町として形成されていきました。

信虎がつつじが崎に移居した狙い

山梨郡の小松の里「相川扇状地」に館を移居した狙いはどこにあったのでしょう?
1.それまで館があった川田館は笛吹川に近く水害の被害を何度か被ったことがあった。それに引き換え小松の里は相川、藤川があるが狭くて深いため大洪水は少ない。
2.戦国時代に相応しい軍事防衛に適した場所で戦国大名への足がかりにする。
3.つつじが崎館を政庁舎とし政治基盤を確立し国を統括・支配する。
4.一条小山南側に発達していた「一蓮寺門前町」を囲い込む。
5.風水的に適している。「三閉南開」、「四神相応」の地。
などが挙げられます。

甲府城下町はまさに「京の都」を真似て作っており、信虎がいかに京を意識していたかが分かります。町は条坊を基本とし作り上げ、居館は室町将軍の「花の御所」をモデルにしたとも言えます。また晴信(信玄)の「晴」の字は将軍足利義晴からもらうとともに正室には左大臣三条公頼の子(三条夫人)を迎えていることからもうかがえるのではないでしょうか。

武田神社(武田氏館跡)
  甲府市古府中町2611
JR中央線甲府駅(北口)からバスで約10分(武田神社下車)
武田神社http://www.takedajinja.or.jp/1_jinja.html

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